本牧神社(神奈川県横浜市)

※「三渓園」の古民家にあった「本牧神社」の神棚

2019.12 「三渓園」を見学後、「本牧神社」へ。参拝予定はなかったのですが、ちょうど通りかかって参拝はこちら~の看板のまま吸い込まれていきました(笑

鳥居 立派な鳥居です。

本牧神社(旧称・本牧十二天社)

・旧来、本牧岬の先端(現本牧十二天一番地)に張り出した出島の中に鎮座し、巨古木蒼然たる杜に囲まれ、鳥居の脚元には波濤打ち寄せる風光明媚な鎮守様でした。

・その様子は江戸名所圖絵にも「本牧塙 十二天社」として描かれ、江戸湾を往来する廻船からは航海安全の神、地元民からは生業の守護神と崇められ、八百年以上の永きに亘り本牧の地に鎮座して人々のあつい信仰を受け続けていました。

・ 伝記には、建久二年(1192年)、源頼朝公が鎌倉幕府を開くにあたり、鬼門(北東の方角)守護を祈念して平安時代から存せる神殿に六尺×四尺の朱塗厨子を奉納したとあります。

・また、鎌倉将軍惟康親王より社領の寄進を受け、さらに室町中期には、関東管領より社領の寄進を受けました。天正年間には徳川家康公の関東入国に際し、高十二石免御朱印の下知があり、以来、徳川十五代将軍より「御代々頂戴」―とあり、方除け、厄除けにご神徳が顕然として、武家や庶民から篤く崇敬されていた様子が判ります。

・また、別当寺であった多聞院の由緒書によると『弘長三年(1263年)正月元朝、滄波洋々たる海中に炫爛として皎明を発し、一の大日靈女命(天照大御神)の像、今の社地の海岸に漂い給いしを郷人恭しく祠宇を建て、本村の総鎮守と奉斎したり。去るほどにいつの頃か僧侶の手により本地垂迹の説を継いで仏説十二天(日天、月天、火天、水天、風天、地天、梵天、毘沙門天、大日財天、閻魔天、帝釈天、羅刹天の十二神)を神前に祀り、本体大日靈女命を深く秘したり(今に古老は当の本体は本殿の背後より拝するものとする風あり)』とも記されており、十二天社の呼称のいわれを伝えています。

・一尺二寸の十二体の天像は、明治初年の神仏分離令によって分けられ、本体の大日靈女命を祀って「本牧神社」と改称されました。

・先の大戦において、横浜は大空襲の惨禍により市街の多くが焼け野原となりました。更にこの本牧地区は、終戦直後の昭和21年から、二十三万坪に及ぶ進駐軍の強制接収に遭い、以来、平成5年までの47年間、当神社も往古の境内地を失って本牧町二丁目への仮遷座を余儀なくされ、多くの氏子共々、苦難の時期を過ごしてきました。

・ 米軍の接収が解除とともに、返還地域一帯は横浜市による区画整理事業が行われ、その結果、当神社の境内地は従前の「本牧十二天」ではなく、現在の「本牧和田」に換地されることとなりました。

・大日靈女命は日本書記に天照大御神の別名として大日靈女貴神(おおひるめむちのかみ)として御名が記されていますが、当神社に於いては古くより大日靈女貴命様の御名で手厚くお祭りされています。

・当神社の御祭神としては、「本牧沖合の大海原から顕現された」との社伝から、漁業や海運を生業とする人々には「大漁満足」や「航海安全」の神として、また、農耕に携わる人々には豊作の神として、地域の安全と繁栄を守護される御神徳が古くから篤く信仰されてきました。

・また室町時代より連綿と受け継がれる「お馬流し」は、地域社会全体から氏子・崇敬者一人ひとりに至るまで、あらゆる災いを祓い退け、清らかで健やかな日々が過ごせるように祈る力強い神事です。この特徴的な神事を氏子と一体となって厳修し続けてきた当神社は、その故に厄除け・除災招福・方除け・家内安全・商売繁盛・事業繁栄・心願一切成就等の幅広い御神徳を景仰する多くの参拝者で、御社頭は常に賑わいを見せています。

拝殿

拝殿

拝殿

拝殿

拝殿奥の本殿

本牧神社の「お馬流し」神事
・永禄9年(1566年)から400年以上も受け継がれており、現在、神奈川県無形民俗文化財、及び神奈川県民俗芸能五十選に指定。

・「お馬さま」とは、茅(カヤ)で作った馬首亀体(=首から上は馬で胴体は亀のかたち)で、頭部からの羽や、長い尾を含めると体長約一メートル。馬首には白幣、口には稲穂をくわえ、亀体の中央には大豆と小麦をふかして、黄名粉をまぶしたお供えと、神酒を白素焼き皿に容れて神饌とします。

お馬さまは、旧本牧六ヶ村(間門、牛込、原、宮原、箕輪、台)に因み計六体が奉製されます。もともとは六ヶ村それぞれで調えていたものと考えられますが、いつの頃からか六体全てを「やぶ」の屋号を持つ羽鳥家の当主が奉製する習いとなりました。七月下旬、神社境内の茅場にて神職と氏子が祓いを重ねて育成した茅を刈り取り、「やぶ」の当主自身が斎戒沐浴し一週間かけて作り上げます。

・このお馬さまにあらゆる厄災を託して本牧の沖合い数キロの海上に流し去るのがこの神事の趣旨です。一旦放流したお馬さまが陸地へ還着することを極度に恐れるため、潮の干満を重視します。このため祭日は旧暦6月15日大潮の日に決まっていましたが、明治に太陽暦が採用されてからは8月第一か第二日曜日の何れかが充てられ、毎年一定しません。

拝殿前より 海が見えそうで見えません。

境内の前は綺麗な公園でしたよ。

境内社 稲荷神社

手水舎 海外の小学生が参拝していましたよ。この辺り外国の方が多かったです。かつての米軍基地の流れなのでしょうか?

熊野速玉社(境内社)

古くは熊野龍王権現と見え、末社として祀りされていました。御本社熊野大社は熊野三所権現と称され、和歌山県紀伊半島の南部に三社それぞれ御鎮座されています。  当氏子地区が漁業の盛んな地域であることから、さらなる大漁満足・航海安全の霊験あらたかな大神としてお迎えされたと考えられます。  御祭神は熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ)・熊野夫須美大神(くまのむすびのおおかみ)を奉祀しています。 同社に隣り合わせて榎木の樹がそびえ、榎木は「縁の木」につながることから、木の周りを右回りに三度回れば良縁に恵まれ、逆さに三度回ると悪縁を断ち切り、さらに新たな良縁に恵まれる御神徳あらたかな神として崇敬を集めています。

狛犬ちゃんが・・・????

狛犬ちゃんが、とっても小さかったです。可愛い~^^

熊野速玉社から上へ続く階段があったので登ってみました。

綺麗な街並みなんですよ。

眺めがいいです。

見晴台
まきばの丘の南端にある見晴らし山、標高45.5m。 南側はさくら広場。
京葉工業地帯の火を噴いている煙突も見えました。

富士山も薄っすらと^^

ススキと本牧神社拝殿・本殿

本牧神社南の整備された高級住宅街(第二次大戦後に米軍へ接収された新本牧地区の返還に伴った土地区画整理事業による)

電線の地中化で街並みはスッキリしています。良いですね~^^

幕末、ペリーは、本牧十二天のオレンジ色の崖をその色から「マンダリン・ブラフ」、現在の本牧市民公園周辺の崖を「トリーティー・ポイント(条約岬)」と名づけた。
本牧の断崖は横浜港に向かう各国の船の目標であった。現在でも南部の本牧市民公園付近に断崖が残り海岸の名残を留める。 古くから景勝地として知られ、外国人たちは本牧から根岸にかけての海岸(根岸湾)を「ミシシッピ・ベイ」と呼びその風光を愛した。
明治の実業家原富太郎(三渓)がこの海岸に構えた別荘は現在、三溪園の名で横浜の代表的観光地として知られる。現在は隣接して本牧市民公園、本牧臨海公園がある。間門(まかど)からは天候次第で現在も富士山を鮮明に見る事ができる。
山手警察署から間門まで現在は桜並木となり、春になれば桜吹雪の中を数キロにわたりドライブできる。 
太平洋戦争敗戦直後に本牧十二天を含む中央部が米軍に接収されるに伴い、住民達は強制退去させられ、接収地域はフェンス(金網)で囲まれた。フェンス内は在日アメリカ海軍の住宅街『ベイサイド・コート』(米軍住宅、正式名称:米軍横浜海浜住宅地区 (Yokohama Beach Dependent Housing – Area))などの施設となり、「米軍ハウス」あるいは単に「ハウス」などともいわれ、日本におけるジャズなどのアメリカ文化の発信地でもあった。
現在の本牧バス通りの海側をエリア1、山側をエリア2と称した。当地域は1982年に返還され住宅地、公団住宅、ショッピングセンター(マイカル本牧)、公園などになった。by wikipedia

 

↓この旗に、一瞬、なに???と違和感を持ったのですが、「船舶信号旗」だったと帰ってから調べて解りました^^

 

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